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外科・内科混合病棟に勤務して4年目のA看護師に、話を伺いました。
病棟では先輩看護師からも後輩の新人看護師からも頼られる存在で、チームの要となっているAさん。
看護師になるきっかけから、この先目指す看護観まで話を聞きました。
Aさんが看護師になるきっかけは何だったのですか?
高校一年生の時に「東日本大震災」がありました。テレビでは毎日 被災地の映像が流され、特に津波の映像はインパクトが強かったです。その映像を見ながら 自分に今できることはないかと毎日考えていました。本当は被災地に行って、なにか力になりたい、でも当時高校生だった自分にはできることがなくて…人の役に立てる職業に就きたい、そう思いました。
震災はとても大きな出来事でした。当法人からも現地へ援助に入っていたのを思い出します。進路を決めるときに、世の中が大きく揺らぐ出来事が起きたことは、自分がどう生きていくかに大きく影響しますね。
「人の役に立ちたい」という思いは強かったですが、震災で傷んでしまった地球環境のことを考えると「自然保護」にも興味はあったし、直接的に人命救助するなら「自衛官」になることも考えたんです。
いろいろな選択肢があった中、姉が看護大学に進学したのにも影響されて、最終的には「看護師」の道に進むことに決めました。
いろいろな思いがあってたどりついた看護師という職業ですが、実際なってみてどんなことを思いましたか?
看護師になって思ったのは、同期の看護師たちの自分の職業への思いの強さでした。「母親が看護師で働いている姿を見て育った」とか「自分が入院した時の看護師のケアに感銘を受けた」とか、エピソードがしっかりありました。
自分は姉から「看護師大変だよ」とは聞いていたけれど、意外とフラットなイメージしかなかったんだなと。でも逆にそれが大変な現場の中に入った時、現実とのショックが大きくならずにすんだ気がしています。
看護の仕事が始まって、いろいろな患者さんと出会う中で自分なりの看護観を考えるようになりました。
Aさんは自分を客観視して冷静に受け止める力があったんですね。看護師の1年目はみんな多かれ少なかれ いろいろな葛藤があります。それを自然体で乗り越えてこれた、精神的にタフだったんですね。
50代の女性、乳癌の患者さんです。下肢が動かなくなったという主訴で入院してこられました。検査の結果、脳に転移が見つかりました。日に日に動けなくなっていったのがわかりました。入院して1~2週間の出来事でした。ご本人も自覚されていたようです。「自宅に帰りたい」という思いが本人・ご家族ともに強くなっていました。急遽、カンファレンスを開き自宅へ退院することが決まりました。
その患者さんとご家族は 在宅で看取ることがあるかもしれない。そう思われていたのですね。みなさんわかっていた上で、自宅に帰り 貴重な時間をご家族と過ごすことを選択されたのですね。
はい。とても病状の進行が早く、みなさん気持ちが追い付いていなかったと思います。でも、ご家族はこの時期を逃したらきっと後悔すると思ったようで、娘さんがカンファレンスの場で「母を家に帰してあげたいんです」と泣きながら訴えたんです。同席していたスタッフみんなが胸をうたれました。
そのカンファレンスでは、病院・在宅それぞれのスタッフが、その患者さんのために真剣に意見を出し合い、動いていました。スタッフ皆一生懸命でした。これがチームで動いていくってことなんだって、すごく実感したんです。その姿をみて感動しました。
多職種チームがその患者さんを中心に一致団結した、そんなカンファレンスだったのですね。それに参加し、病棟看護師として力を尽くせたことは大事な経験です。
その患者さんは退院して一週間で亡くなってしまいました。50代でまだ若かったし、進行が早くてご家族と同様に私たちも気持ちが追いつかなかった、当時はとてもショックでした。やさしい方で看護師にもよくお声をかけてくれました。
私たちの方がきっと優しさと笑顔をもらっていたんです。お声も優しくて。あの笑顔が今でも忘れられません。
看護師になった当初は「フラットな考えで乗り越えてきた」とと話していたAさん。
患者さんに看護ケア関わる中でたくさんのことを教えていただき、貴重な学びを得て成長してきたのだとお話を聞いていてわかりました。
そして、これから描く未来 先輩として後輩看護師に伝えたいことを、vol,2でお話してもらいます。
vol,②へ続く。